山田寺跡と飛鳥博物館磐余稚桜神社を出て、ちょっと距離はありますが、山田寺跡に向かいます。山田寺というのは蘇我倉山田石川麻呂の屋敷だったところです。 蘇我倉山田の石川麻呂というのは天智天皇の妃である遠智娘のお父さんなのです。 天智天皇は蘇我入鹿と対決するためには協力者が必要でした。 そこで、天智天皇の腹心の部下である藤原鎌足の目に止まったのが蘇我倉山田石川麻呂だったのです。 蘇我の本家は馬子、蝦夷、入鹿らでした。 本家ではく親族である倉山田石川麻呂に白羽の矢を立てたのにはわけがあります。 蘇我でありながら、本流ではない倉山田石川麻呂は本家に少なからずライバル心をもっていました。 また、姓に倉がつくように倉を管理する仕事だったのです。 そのため、うまいことして、財を蓄えるということは簡単だったのです。 鎌足はその財力に目をつけたのでした。 そこで、中大兄皇子(のちの天智天皇)に倉山田石川麻呂の娘との婚姻を勧めます。 そして、遠智娘(オチノイラツメ)との婚姻が成立するのです。 そして、生まれた娘が大田皇女とウノノサララです。 前々回の主人公であった大津皇子と大伯皇女の母は大田皇女で、ウノノサララは後の持統天皇です。 つまり蘇我倉山田石川麻呂は大田皇女とウノノサララのおじいちゃんということになります。 大化の改新の時には蘇我倉山田石川麻呂の財力が威力を発揮します。 つまり、大化の改新は蘇我倉山田石川麻呂なくしては成功しなかったのでしょう。 つまり、大化の改新の立役者ということなのです。 しかし、大化の改新後中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂は意見が食い違ってきます。 新しい時代の流れについていけなかったのかもしれませんね。 大化の改新のもっと太い柱は、財産を全部天皇に返して、そこから天皇の命によって臣下のものは収入を得るという中央集権の第一歩だったのです。 大金持ちがそう簡単に賛成できるはずはないですね。 そこで、いつもの手を使います。 中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂を謀反の罪で自決に追いやります。 蘇我倉山田石川麻呂が自決した場所がこの山田寺跡なのです。 実際にその地に立つといろいろな思いがわきあがってきます。 山の中に囲まれた場所的なこと、遺跡から分かる規模の大きさ。 また、その遺跡の形状。 またしても私と先輩は感激しながらその場所を歩き回ったのです。 発掘された柱や出土品はここから程近い飛鳥資料館で展示されています。 そこへ行ってみることにしました。 飛鳥資料館は飛鳥のものがたくさん展示されています。 また、たくさんの資料やビデオで飛鳥の歴史を知ることが出来ます。 先輩と私はここで、一休みしながらいろいろなことを学ぶことにしました。 今日は結構たくさん歩きました。 本当はここから奥山久米寺跡に行って、雷丘(雄略天皇が雷を捕まえさせた所)を通って橿原駅に行くつもりでした。 途中、甘樫の丘のちかくの小墾田宮を通るつもりでしたが、もう私の足がくたくたになってしまったので、ここからはバスに乗ることにしました。 それにしても、昔の人はこの距離を簡単に歩いたのでしょうね。 実際に歩いてみてそのことを痛感しました。 位置関係もよく分かるし、歩くと言うことは本当に良いことです。 まだまだ、行きたくて行ききれていないところがたくさんあります。 次に来る時の楽しみと言うことにしました。 今回は美味しいものは食べれなかったのですが、もってきたおにぎりを時々場所を見つけて食べるのはまた楽しかったです。 では、楽しかった旅もここまでです。 また来ようねと名残を残しつつ家路につきました。 ジャンル別一覧
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